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Deshima Revived

蘇る出島を題材にしたオランダのメディアプロジェクト

およそ200年前、長崎と貿易のためにつくられた小さな小さな人工島「出島」は日本と西洋の間で交流が行われる唯一の場所でした。1641年、将軍徳川家康は出入りを出島に限ってオランダが日本と独占貿易をすることを認めました。出島はサッカーフィールドがせいぜい二つ入る程度の大きさしかなく、貿易のためというより西洋科学の知識の入り口として大きな役割を持っていました。1853年以降はオランダ人が特権を失い、衰退した出島の外枠は都市開発と共に徐々に消え失せてゆきました。しかし長崎の住民は出島を忘れることはありませんでした。

商館の再建は1951年より行われていますが、はじめの50年は出島の一部であった土地を買い戻すことに費やされました。2017年の完成予定に向けて建設に着工したのは今世紀に入ってからです。表門(ベルギー人建築家によってデザインされた橋)は盛大なセレモニーとともにオープンする予定です。復元には一億円以上の費用がかかり、そのうち一千万円は地元の人々が主導して集めたものです。これは長崎の住民がわずか50万人であることを考えると大金と言えます。

日本をよく知るオランダ人のマティ・フォラー教授は定期的に長崎を訪れ、出島の依頼で復元についてアドバイスをしています。彼が大勢の聴衆の前でその時代のことについて話をすることもしばしばですが、歴史に誇りをもつ地元の人々は「出島はオランダでも同様に人々の心に根付いていますか」と彼に問いかけます。フォラー氏がそうではないことを伝えると、彼らは腑に落ちない様子で「でも日本はこの包領と街の間の橋を通して多くの重要な知識を得たんじゃないか」「出島があったお陰で日本は近代化の道を進んだんでしょう?」などの答えを返します。

出島が日本の歴史にとって重要な位置を閉めていることは明確です。それは特に、オランダ人の「東インド会社精神」(ヤン・ペーター・バルケネンデ元首相のことば)と「黄金時代の商人気質」(マルク・ルッテ首相のことば)に則した度胸と企業家精神を表す例でもあります。そのため、オランダの視察団や国王が日本との関係強化のために訪日する際に見せびらかすための扇形の「ビジネスカード」としてだけでなく、「東インド会社のシンボルから揚々と搾取するべきなのか」というオランダ人の困惑の根源としても出島は残っています。

この特別な場所について、私たちはどのように考えるべきなのでしょう?出島に、オランダ人がすでに知っているものではない、未来に活かせるような意味を与えることはできるのでしょうか?フォラー氏の長崎での第一回目の公演のタイトルが「私たちの出島」であったのには理由があります。出島はオランダの歴史の一部でもあり、恥じるべきものではない、とフォラー氏は言います。現在も孤立した島国である日本の人々にとって出島はどんな意味を持っているのでしょうか?よみがえった出島は異なる国同士の対話のシンボルとなることができるのでしょうか?

WEBSITE: Marten Minkema

Photo: Collection from the Historiographical Institute of the University of Tokyo